水産養殖におけるデジタルツイン導入:生産効率向上と環境負荷低減の成功事例
水産養殖におけるデジタルツイン導入:生産効率向上と環境負荷低減の成功事例
この記事では、近年生態系への配慮と生産性の両立が求められている水産養殖分野において、デジタルツイン技術がどのように導入され、顕著な成果を上げたのか、その成功事例をご紹介します。複雑な生物飼育と環境管理を伴う水産養殖において、デジタルツインはオペレーションの最適化、リスク管理、そして持続可能性の実現に大きく貢献しています。
導入前の課題
事例の対象となる大規模陸上養殖場では、持続可能な方法で高品質な魚種(ここでは仮に高級サーモンとします)を安定的に生産することを目指していました。しかし、その実現には以下のような複数の深刻な課題が存在していました。
- 高度な水質管理の困難さ: 陸上養殖では、水温、溶存酸素量、pH、アンモニア、硝酸塩などの水質パラメータを常に最適な範囲に維持する必要があります。これらのパラメータは生物の健全性や成長速度に直結しますが、少しの変動でも生物にストレスを与え、最悪の場合は大量死滅につながるリスクがありました。リアルタイムでの正確なモニタリングと、それに即応した微調整が極めて困難でした。
- 疾病リスクの早期発見と封じ込め: 魚類の健康状態のわずかな変化を見逃しやすく、疾病が発生すると水槽全体、さらには施設全体に急速に広がる恐れがありました。疾病の早期発見と迅速な対応体制の構築は、生産性維持と損失回避の大きな課題でした。
- 餌やりの非効率性: 魚の成長段階、密度、活動レベル、水質条件などに応じて、最適な量とタイミングで餌を与えることは、飼料コストの最適化と魚の健全な成長のために不可欠です。しかし、経験や目視に頼った餌やりでは、過剰給餌による水質悪化やコスト増、あるいは不足による成長遅延が発生しがちでした。
- 高いエネルギー消費: 養殖槽の水温管理、循環ポンプ、ろ過システム、酸素供給などに多大なエネルギーを消費しており、運用コストを圧迫していました。エネルギー使用量の最適化は、収益性向上と環境負荷低減の両面から重要な課題でした。
- 排水による環境負荷: 養殖排水に含まれる未利用の飼料や排泄物は、適切な処理がなされない場合、周辺の水環境に影響を与える可能性があります。環境規制の遵守と、より積極的に環境負荷を低減する取り組みが求められていました。
- オペレーションの属人化: 熟練したオペレーターの経験や勘に依存する部分が多く、オペレーションの標準化が進んでいませんでした。新規スタッフの育成に時間がかかり、運用効率や品質にばらつきが生じることも課題でした。
これらの課題は複合的に絡み合い、安定した高品質生産、コスト最適化、そして環境持続性の実現を阻んでいました。
デジタルツインソリューションの概要
これらの課題を解決するため、この陸上養殖場では包括的なデジタルツインソリューションが導入されました。
- デジタルツインモデルの構築: 養殖槽、生物群(魚)、水処理システム(循環ろ過、紫外線殺菌など)、給餌システム、環境制御システム(水温、酸素濃度など)といった物理的な養殖施設全体の精緻なデジタルレプリカが構築されました。このデジタルツインは、物理的な構造だけでなく、水流、化学物質の濃度変化、熱伝導、生物の代謝や成長といった動的なプロセスもモデル化しています。
- 広範なセンサーネットワーク: 養殖槽内外、水処理システム、環境制御装置など、施設全体に多数のIoTセンサーが設置されました。水温、pH、溶存酸素、アンモニア、硝酸塩濃度、流量、濁度、水位といった水質関連パラメータに加え、電力消費量、ポンプの稼働状況、給餌機の動作データなどがリアルタイムで収集されました。さらに、生体モニタリングとして、一部の水槽ではカメラ映像による魚群の活動量や摂餌行動の観察データも取得されました。
- データ統合とクラウド基盤: 収集された膨大なセンサーデータは、高速なネットワークを通じてクラウド基盤に集約され、リアルタイムでデジタルツインモデルに反映されます。過去の運用データ、生物の成長記録、疾病発生履歴などもこの基盤に統合されました。
- 高度な分析とシミュレーション機能:
- 水質予測・管理: リアルタイムのセンサーデータと過去のデータ、物理モデルに基づき、数時間後、数日後の水質変化を予測します。予測結果に基づき、水温、酸素供給、pH調整などの最適な制御アクションを提案・自動実行します。
- 生体モデルと健康モニタリング: 生体モデルは、水質、水温、餌やり量などの環境要因が魚の成長や健康状態に与える影響をシミュレーションします。リアルタイムのセンサーデータ(特に活動量や摂餌行動のデータ)と組み合わせることで、疾病の兆候を早期に検知し、オペレーターにアラートを送信します。
- 給餌最適化: リアルタイムの環境データ、生体モデルによる成長予測、過去の給餌効率データなどから、その時点での魚群にとって最適な餌の種類、量、タイミングを計算し、給餌機に指示を送ります。
- エネルギー消費最適化: 各設備の稼働状況や環境パラメータからエネルギー消費を予測し、水質・水温目標値を維持しつつ最もエネルギー効率の良い運転方法を提案します。
- 排水シミュレーション: 養殖槽の状態や水処理システムの稼働状況に基づき、排出される排水の水質をシミュレーションし、必要な処理レベルを判断します。
このソリューションは、特定の著名なベンダーのパッケージをベースとしつつ、養殖対象の生物種や施設の特性に合わせてカスタマイズされています。大量のリアルタイムデータを処理・分析し、複雑な生物・環境システムをモデル化できるスケーラブルなクラウドアーキテクチャが採用されました。
導入プロセスと実施内容
デジタルツインの導入は、施設全体を一度に変更するのではなく、リスクを抑えながら効果を確認するため、段階的に進められました。
まず、一部のパイロット水槽と関連システムにセンサーとモニタリング装置が設置され、数ヶ月間にわたり既存のオペレーションと並行してデータ収集とデジタルツインモデルの構築が行われました。この段階で、収集されるデータの質や量、モデルの精度に関する課題(例: 特定のセンサーのキャリブレーション問題、データ欠損への対応、初期モデルと実測値の乖離)が明らかになり、改善が進められました。
次に、パイロットシステムで一定の成果が得られた後、段階的に施設全体への展開が進められました。このプロセスでは、以下の点が重要視されました。
- 既存システムとの連携: 既存の給餌システムや環境制御装置とのデータ連携および制御連携を円滑に行うためのインターフェース開発。
- オペレーターへのトレーニング: 新しいシステムの操作方法、デジタルツインが提供する情報の読み取り方、アラートへの対応方法などについて、現場オペレーターへの集中的なトレーニングを実施。システムの提案を鵜呑みにするのではなく、自身の経験と組み合わせて判断できるよう、意思決定支援ツールとしての位置づけを強調しました。
- 継続的なモデル改善: 稼働後も継続的に実測データとシミュレーション結果を比較し、モデルの精度向上に向けたチューニングやデータ収集戦略の見直しが行われました。
- フィードバックループの構築: 現場オペレーターからの使用感や改善要望、システムから得られた新たな知見を開発チームや経営層にフィードバックする仕組みを構築し、システムとオペレーションの双方を継続的に進化させました。
導入による成果
デジタルツインの導入により、陸上養殖場は目覚ましい成果を達成しました。
- 生産効率の向上:
- 飼料効率(FCR: Feed Conversion Ratio)が平均で約12%改善しました。これは、最適な量とタイミングでの給餌により、無駄な飼料が削減され、魚がより効率的に成長したためです。
- 生産サイクル期間(孵化から出荷サイズまでの期間)が平均で約10%短縮されました。健康状態の最適化とストレス低減により、魚の成長が促進されたためです。
- 出荷可能量ベースで、単位面積あたりの生産量が向上しました。
- 生物健全性の向上とリスク低減:
- 疾病による死亡率が約15%低下しました。早期の疾病兆候検知と迅速な対応により、病気の蔓延を防ぐことが可能になったためです。
- 突発的な水質悪化や機器トラブルによる大量死のリスクが大幅に低減しました。リアルタイム監視と予測に基づいた事前対応が可能になったためです。
- コスト削減:
- 飼料コストの削減に加え、エネルギー消費量(特に水温管理と水質浄化関連)が約8%削減されました。運転の最適化による効果です。
- オペレーション効率が向上し、人件費を含む運営コストの最適化が進みました。
- 環境負荷の低減:
- 排水に含まれる未利用飼料や代謝物の量が削減され、排水水質が安定・改善しました。特定の栄養塩濃度が平均20%低減した事例も報告されています。
- エネルギー消費削減は、温室効果ガス排出量の削減にも寄与しました。
- 定性的な成果:
- オペレーションがデータに基づき標準化され、熟練度に関わらず一定の品質を維持できるようになりました。
- 意思決定が迅速かつ的確に行えるようになりました。例えば、水質異常の予兆を検知した場合、デジタルツインが示すシミュレーション結果に基づき、最適な対応策(例: 換水量の調整、酸素供給量の増加)を即座に選択できます。
- 新規スタッフへのトレーニングが効率化され、早期に戦力化できるようになりました。
- トレーサビリティが向上し、消費者や規制当局への情報提供が容易になりました。
これらの成果は、導入前の課題がデジタルツインによって効果的に解決されたことを明確に示しています。
成功要因とポイント
この水産養殖場におけるデジタルツイン導入成功の背景には、いくつかの重要な要因があります。
- 明確な目的設定と経営層のコミットメント: 単なる技術導入ではなく、「生産効率向上」と「環境負荷低減」という明確な経営目標と紐付けられていました。経営層がデジタルツインをその達成のための基盤技術と位置づけ、強力なリーダーシップを発揮したことが推進力となりました。
- 現場との密接な連携: 開発チームや技術パートナーが、養殖の専門家である現場オペレーターと継続的にコミュニケーションを取り、彼らの知見や経験をデジタルツインモデルに反映させました。システムの利用者であるオペレーターの視点を重視した設計とトレーニングが、スムーズな導入と活用を促進しました。
- データ活用の文化醸成: データを収集・分析するだけでなく、その分析結果に基づいて意思決定を行い、オペレーションを改善するというデータ駆動型の文化が醸成されました。リアルタイムダッシュボードの活用や、定期的なデータ分析会議の実施などがこれに貢献しました。
- 技術パートナーとの適切な協業: デジタルツイン構築・運用には高度な技術力が必要ですが、自社ですべてを内製するのではなく、専門知識を持つ技術パートナーと協力しました。カスタマイズ性の高いソリューションを選定し、自社の具体的なニーズに合わせて調整していきました。
- 段階的な導入と継続的な改善: 全体最適を目指しつつも、まずは一部での導入から始め、効果検証と改善を繰り返しながら展開を進めたことで、リスクを管理しつつ着実に成果を積み上げることができました。
事例からの示唆と展望
この水産養殖場での成功事例は、デジタルツインが複雑な生物・環境システムを管理する産業において、非常に有効なツールであることを示唆しています。
- 他産業への応用可能性: この事例で得られた知見(複雑な環境パラメータのリアルタイムモニタリング、生物モデルと環境モデルの連携、予測に基づいた最適制御、リスクの早期検知など)は、畜産業(例: 豚舎、鶏舎の環境管理)、植物工場、バイオリアクターを用いたバイオテクノロジー分野、さらには都市の緑地管理や生態系モニタリングなど、同様の課題を抱える多様な分野に応用可能です。
- 持続可能な生産システムの構築: 食料安全保障や環境問題への関心が高まる中、デジタルツインは資源利用効率の向上、環境負荷の低減、トレーサビリティ確保を通じて、より持続可能で透明性の高い生産システム構築の鍵となり得ます。
- 経験とデータの融合: 属人化しがちな産業においても、デジタルツインは熟練者の経験知をデータやモデルに取り込み、標準化・形式知化することで、オペレーションの質向上と次世代への技術継承に貢献します。
- リモート監視・管理の進化: デジタルツインは、遠隔地にある施設のリモート監視・管理能力を飛躍的に向上させます。これは、労働力不足が懸念される地方産業や、危険な環境下でのオペレーションにおいて特に有効です。
- 将来展望: 今後、デジタルツインは単一施設内の最適化に留まらず、複数の養殖場や漁場、さらには加工・流通を含むサプライチェーン全体を統合的に管理・最適化する方向へと進化していくと考えられます。また、気候変動予測モデルとの連携によるリスク管理の高度化なども期待されます。
コンサルタントの皆様にとって、この事例は、デジタルツインが単なる可視化ツールではなく、リアルタイムデータ分析、予測、シミュレーション、そして自動制御を通じて、生産性、環境負荷、リスク管理といった経営の根幹に関わる課題解決に貢献しうることを示す好例となるでしょう。
まとめ
本記事では、水産養殖におけるデジタルツイン導入の成功事例を詳細にご紹介しました。導入前には、水質管理、疾病リスク、餌やり効率、エネルギー消費、環境負荷といった多岐にわたる課題が存在しました。これに対し、養殖施設全体のデジタルツインを構築し、広範なセンサーデータと高度なモデルに基づく分析・シミュレーションを行うソリューションが導入されました。
その結果、飼料効率や生産サイクルの改善による生産効率向上、死亡率低下や早期検知によるリスク低減、エネルギー消費や排水負荷の削減といった定量・定性的な成果が達成されました。この成功は、経営層の明確なビジョン、現場との連携、データ活用の文化、技術パートナーとの協業、そして段階的な導入アプローチによって支えられました。
この事例は、デジタルツインが複雑な生物・環境システムを扱う産業において、持続可能な成長を実現するための強力なツールとなりうることを示唆しています。コンサルタントの皆様の、クライアントへの提案や新たなビジネス機会の探索における参考となれば幸いです。