水インフラ管理におけるデジタルツイン導入:処理プロセス最適化と設備維持管理効率化の成功事例
はじめに
社会生活に不可欠な水インフラは、施設の老朽化、熟練労働者の不足、気候変動に伴う水質変動リスクなど、多くの課題に直面しています。これらの課題に対し、近年注目されているデジタルツイン技術を活用することで、水インフラの運用効率化、安定供給、および維持管理の最適化を実現した事例が増加しています。本記事では、ある自治体の水道事業体(以下、「本事業体」)における、水処理施設および広範な配水ネットワークを対象としたデジタルツアルツイン導入の成功事例をご紹介します。この事例は、複雑なシステム全体を可視化・シミュレーションし、データに基づいた意思決定を可能にするデジタルツインの有用性を明確に示しています。
導入前の課題
本事業体は、広範囲にわたる給水エリアを持ち、複数の浄水場、ポンプ場、そして膨大な長さの配水管ネットワークを管理していました。デジタルツイン導入以前は、以下のような複数の課題を抱えていました。
- 老朽化設備の維持管理非効率性: 多くの設備が耐用年数を迎えつつありましたが、点検や修繕計画は経験と勘に頼る部分が多く、非効率的でした。突発的な故障が発生し、緊急対応によるコスト増加や供給停止リスクがありました。
- 運転パラメータ調整の属人化と非効率性: 浄水場の運転パラメータ(薬品注入量、ろ過速度、ポンプ稼働パターンなど)の調整は、熟練オペレーターの経験に依存していました。エネルギー消費量の最適化が進まず、コスト削減の機会を逸していました。また、水源の水質変動への対応に時間を要し、水質安定供給に影響を与える場合がありました。
- 将来予測と計画策定の困難さ: 人口変動や都市開発による将来的な水需要の変化、気候変動による水源状況の変化を正確に予測し、長期的な設備投資や更新計画を策定することが困難でした。
- 災害発生時の迅速な対応の限界: 地震や豪雨などの災害発生時、インフラ被害状況の全体像を迅速に把握し、復旧優先順位を決定する情報が断片的でした。
デジタルツインソリューションの概要
本事業体はこれらの課題を解決するため、水処理プロセスと配水管ネットワーク全体を対象としたデジタルツインソリューションを導入しました。
このソリューションは、以下の要素で構成されていました。
- 仮想モデルの構築: 物理的な浄水場、ポンプ場、貯水池、配水管などを精緻にモデリングした仮想空間を構築しました。管路の材質、口径、敷設年数、地形情報なども含め、現実世界の水インフラを高精度に再現しました。
- データ統合プラットフォーム: 各施設のSCADAシステムからの運転データ(流量、圧力、水位、水質)、ポンプの稼働状況、エネルギー消費量、センサーデータ、地理情報システム(GIS)データ、設備台帳データ、メンテナンス履歴、気象情報などをリアルタイムに統合するプラットフォームを構築しました。
- 解析・シミュレーション機能:
- 水力学モデル: 配水管ネットワーク全体の水の流れ、圧力分布、滞留時間などをシミュレーションし、水圧異常箇所や水質劣化リスク箇所を特定します。
- 水処理プロセスモデル: 浄水場内の各工程(着水井、混和池、沈殿池、ろ過池、浄水池など)の物理化学的プロセスをモデル化し、運転パラメータ変更時の水質変化や薬剤使用量を予測します。
- 設備健全性モデル: センサーデータやメンテナンス履歴に基づき、ポンプや弁などの設備の劣化状況を予測し、故障リスクを評価します。
- 需要予測モデル: 過去の需要データ、気象データ、イベント情報などから、将来の水需要を高精度に予測します。
- 可視化とインターフェース: 統合されたデータとシミュレーション結果を3Dモデルや各種ダッシュボードで直感的に可視化するユーザーインターフェースを提供しました。リアルタイムの稼働状況、アラート、予測情報などを一元的に確認できます。
このソリューションは、既存のSCADAシステムやGISなどのインフラを最大限に活用しつつ、クラウドベースのデータ統合プラットフォームと高度なシミュレーションエンジンを組み合わせることで、スケーラビリティと柔軟性を確保しました。特定のベンダーに依存せず、オープンなインターフェースを持つ技術を選定した点も特徴です。
導入プロセスと実施内容
デジタルツインの導入は、以下のステップで段階的に進められました。
- 要件定義と設計: 既存の課題を詳細に分析し、デジタルツインで実現すべき具体的なユースケース(例:運転最適化、予知保全、事故対応シミュレーション)を定義しました。対象範囲を明確にし、システムアーキテクチャを設計しました。
- データ収集と統合基盤構築: 各所に散在するデータを標準化し、統合するためのデータ基盤を構築しました。老朽化した施設では、新たにセンサーを設置したり、手作業でのデータ入力プロセスを改善したりする作業も行われました。既存システムのAPI連携やETL処理を実装しました。
- 仮想モデル・シミュレーションモデル構築: 物理的な設計情報や過去の運転データ、フィールド調査結果に基づき、高精度なデジタルモデルを構築しました。特に、配水管ネットワークの水力学モデルや浄水プロセスの物理モデルの精度向上には、試行錯誤とキャリブレーションが必要でした。
- インターフェース開発と機能実装: 可視化ダッシュボード、アラート機能、シミュレーション実行機能、レコメンデーション機能などを開発・実装しました。
- 運用テストと現場トレーニング: 実際の運用データを用いたテストを行い、モデルの妥当性を検証しました。現場のオペレーター、維持管理担当者、計画担当者などがデジタルツインを活用できるよう、集中的なトレーニングを実施しました。
- 段階的展開と定着支援: まず一部の施設で限定的に運用を開始し、効果を確認しながら対象範囲を順次拡大しました。利用マニュアルの整備や定期的な勉強会開催など、現場での利用定着に向けた継続的な支援を行いました。
導入プロセスでは、多様な部署(浄水場、配水管理、設備維持、計画、情報システム)間の連携が不可欠でした。また、長年培われてきた現場の経験知を、モデル構築やパラメータ設定に反映させるための対話が非常に重要でした。
導入による成果
デジタルツインの導入により、本事業体は以下の具体的な成果を達成しました。
- 運転効率化とコスト削減:
- 浄水場の運転パラメータをデジタルツインでシミュレーションし最適化することで、エネルギー消費量を年間約15%削減しました。
- 薬品注入量を最適化し、薬品コストを年間約10%削減しました。
- 配水ネットワークのポンプ稼働パターンを最適化し、電力コストを削減しました。
- 水質安定性の向上:
- 水源水質の変動に対して、デジタルツインが最適な薬品注入量や運転パラメータをリアルタイムに推奨することで、水質基準の許容範囲からの逸脱回数を約20%削減し、安定供給を実現しました。
- 設備維持管理の最適化とリスク低減:
- 設備健全性モデルによる予知保全により、ポンプや弁などの突発的な故障を約30%削減しました。計画的なメンテナンスに移行できたことで、緊急対応コストを大幅に削減しました。
- メンテナンス計画をシミュレーションし、全体最適なスケジュールを策定できるようになり、保守コストを約10%削減しました。
- 災害対応能力の向上:
- 災害発生時、デジタルツイン上に被害箇所や設備の停止状況がリアルタイムに反映され、迅速な状況把握が可能となりました。
- 復旧シミュレーション機能により、最適な復旧順序や応急給水計画を短時間で策定できるようになり、復旧までの時間を約50%短縮しました。
- 計画策定の高度化:
- 高精度な需要予測と設備負荷シミュレーションに基づき、将来の設備増強や更新計画をデータドリブンで策定できるようになり、投資判断の精度が向上しました。
これらの成果は、単なる個別改善に留まらず、水インフラ全体のレジリエンス(強靭性)と持続可能性の向上に大きく貢献しました。
成功要因とポイント
本事例が成功に至った主な要因は以下の通りです。
- 明確な課題設定と目的共有: 導入前に具体的な経営・オペレーション上の課題を明確にし、デジタルツイン導入によって何を達成したいのか、関係者間で目的を共有したことが重要でした。
- 経営層のコミットメントと部門横断的推進: 経営層がデジタルツインの重要性を理解し、導入を強く推進しました。また、浄水場、配水、設備、情報システムなど、複数の部署が連携する推進体制を構築したことが成功の鍵となりました。
- 現場の巻き込みと利用定着支援: デジタルツインの最大の利用者は現場のオペレーターや維持管理担当者です。彼らの意見を設計段階から取り入れ、操作しやすいインターフェースを提供し、継続的なトレーニングとサポートを行うことで、積極的な利用を促進しました。
- データ収集・整備への投資: デジタルツインの質はデータの質に依存します。必要なセンサーの設置、既存データのクレンジング、リアルタイムでのデータ連携基盤構築に十分な投資を行ったことが、高精度なシミュレーションを可能にしました。
- 段階的なアプローチ: 一度に全てを構築するのではなく、一部のユースケースからPoCを開始し、効果を検証しながら段階的に展開したことで、リスクを抑えつつ着実に成果を積み上げることができました。
これらの要因は、テクノロジーの導入だけでなく、組織文化の変革やプロセス改善がデジタルツイン成功には不可欠であることを示しています。
事例からの示唆と展望
この水インフラ管理におけるデジタルツイン導入事例は、社会インフラ分野におけるデジタルツインの計り知れない可能性を示唆しています。
- インフラ管理の高度化: 老朽化が進む社会インフラにおいて、デジタルツインは単なる監視ツールではなく、予知保全、最適化制御、レジリエンス強化のための強力なプラットフォームとなり得ます。これは、道路、橋梁、トンネル、ダム、港湾など、他の様々なインフラ分野にも広く応用可能です。
- データ駆動型意思決定への移行: 経験や勘に頼る従来の意思決定から、デジタルツインが提供するリアルタイムデータ、シミュレーション結果、予測に基づいたデータ駆動型意思決定への移行を促進します。
- オペレーションと維持管理の融合: オペレーションデータと設備維持管理データを統合することで、運転状況と設備状態を関連付けた分析が可能となり、より効率的で効果的なインフラ管理が実現します。これは図解する際に、異なるデータの連携を示すと理解が進みやすい要素です。
- 分野横断的な連携: 将来的には、水インフラのデジタルツインを、電力、ガス、交通、防災などの他の都市インフラデジタルツインと連携させることで、都市全体の統合的な管理や災害対応能力の劇的な向上に繋がる可能性があります。
デジタルツイン導入は、単なるシステム導入プロジェクトではなく、インフラ管理の哲学そのものを変革する取り組みであると言えます。今後は、標準化されたデータモデルやインターフェースの整備が進むことで、より多くの事業体がデジタルツインの恩恵を受けやすくなることが期待されます。
まとめ
本記事では、ある自治体水道事業体における水インフラ管理へのデジタルツイン導入成功事例をご紹介しました。導入前の老朽化対応の遅れ、運転非効率性、計画策定の困難さといった課題に対し、デジタルツインは水処理プロセスやネットワークの仮想モデルとデータ統合、高度なシミュレーション機能を組み合わせたソリューションを提供しました。その結果、エネルギー消費量削減、水質安定性向上、設備故障の削減、メンテナンスコスト削減、災害対応能力向上といった具体的な成果を達成しました。
この成功の背景には、明確な課題設定、経営層のリーダーシップ、部門横断的な連携、現場の巻き込み、そしてデータ基盤への適切な投資がありました。本事例は、水インフラのみならず、広範な社会インフラ分野においてデジタルツインが持つ可能性と、その導入・活用における重要なポイントを示唆しています。今後、データ駆動型のインフラ管理が主流となる中で、デジタルツインはレジリエントで持続可能な社会基盤構築に不可欠な技術となるでしょう。